ジェイピープルメインページへ インターネットコンサルティング

「クラカタウ」
西 祥郎

「クラカタウ第12回」

1926年11月12日に起こった叛乱行動は他にもバンドンを中心とするプリアガン地方と東部ジャワのクディリで発生している。更に11月17日、飛び火するようにスラカルタ、ボヨラリ、パラカン、プルウォレジョで蜂起が起こり、また1927年1月1日には西スマトラでも叛乱が起こった。共産党1926年蜂起として歴史に名を留めているこの一連の叛乱行動は、インドネシア共産党内の一部冒険主義分子が画策した全国一斉蜂起のなれの果てだったと歴史家は評している。しかしバンテンで蜂起の際に武器を手にした叛乱者たちの大半は共産主義社会の誕生を志向した真の共産主義者ではなく、共産党員に組織され煽動されてはいたがかれらはムスリム民族主義者たちだった。その意味でバンテンのこの蜂起は1945年に始まる独立闘争の前哨戦であったかのような趣を漂わせており、独立闘争が1945年革命とインドネシアで呼ばれている事実がその類似性を証明しているようだ。

植民地政庁はその叛乱の結果いくつかの対応策を取った。叛乱が特に激しかった地区での監視を厳重にする政策がそれだ。要所要所への軍隊と警官の配備を強化するだけでなく、住民管理行政にもっと有能な行政官を当たらせることにも重点が置かれた。叛乱時に政府側で優秀な働きを示した若い役人を抜擢して特に監視が必要な地区を担当させるという方針に従って、ランカスビトゥン県令の息子で警察班長のラデン・ムリアがスンダ海峡に近いシンダンラウトに副郡長として赴任した。
     
若く活動的な新副郡長は、共産主義者の巣窟と言われていたシンダンラウトで不穏分子や犯罪者を一般住民から引き離すのに成功し、村を昔のような穏やかな場所に復活させた。それがかれの最初の一年間に示した業績だった。しかしまだ安心することはできない。[ 続く ]

クラカタウを初めから読む


この作品は西さんの提供です


※このサイトに掲載されている内容(データ)は ジェイビープルが所有するものであり、無断転載、転用及び無断複製は一切禁止します。
※リンクはフリーです。Copyright(c)2004-2005 JPEOPLE