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「クラカタウ」
西 祥郎

「クラカタウ第20回」

ジャワ島西部地方はスンダと呼ばれ、その地域に住むひとびとはジャワの中部東部地方と文化や言語を異にしている。スンダ地方は8世紀はじめから16世紀終わりごろまでスンダ王国が支配したが、ボゴール周辺にあったパクアンパジャジャランが王都の時代にジャワ島最期のヒンドゥ王国として滅亡した。スマトラのスリウィジャヤ王国が南海の広範な地域で覇権を拡張すればスリウィジャヤに、中部東部ジャワでシャイレンドラやシンガサリ、あるいはマジャパヒッ王国が威勢をスマトラからインドシナ半島にまで轟かせればジャワ王朝に服従してその宗主権を認めるという形で生き延びてきたスンダ王国は、中部ジャワ北岸部の商港がイスラム化してジャワ島最初のイスラム港湾都市国家となったドゥマッによってマジャパヒト王国が1487年に息の根を止められたとき、庇護者を失ってイスラム勢力の矢面に立たされることになった。
     
ヒンドゥ教の原理によって領民を統治してきたマジャパヒッの支配階層がバリ島へ逃れあるいは峻険なブロモ山中に逃避して立てこもったあと、ジャワにおけるイスラム化の波は北海岸部から内陸へと広範に浸透して行った。ドゥマッは更にジャワ島中部東部地方での覇権確立や1511年に行われたポルトガルのマラッカ占領とその恒久基地化への対抗といった多忙な時期を送ったあと、西ジャワへ支配の手を伸ばしはじめる。ドゥマッ第三代のスルタン・トレンゴノがチレボンのスルタンであるスナン・グヌンジャティと共に連合軍を編成し、ドゥマッの将軍ファタヒラを総指揮官としグヌンジャティの息子ハサヌディンを副将につけて西ジャワ最大の商港バンテンの攻略に向かわせた。1526年にバンテン港はイスラム軍の前に陥落し、中部ジャワ出身のイスラム勢力はバンテン港に王国を築いてハサヌディンが初代スルタンに即位した。翌1527年、ファタヒラは軍を東に向けてチリウン河口にある港町スンダクラパを征服し、町の名をジャヤカルタと改め、自らその地の領主としてそこを統治した。
     
北部の海岸線とそこに繁栄していた通商をジャワ・イスラム勢力に奪われたスンダ王国が国力の涸渇を避けることができなくなったのは自明の理で、加えてバンテン王国からひっきりなしに南下してくるイスラム軍との交戦に疲弊し、1579年にパジャジャラン王国は滅亡した。イスラム化の波が今度はスンダ地方の内陸部を襲い、その波を避けて奥深い山里にこもったのがいまバドゥイと呼ばれているひとびとの先祖である。スンダの王国は最初ヒンドゥ教の原理に拠ったが、その後仏教が習合してヒンドゥ=仏陀的なものへと変質し、更に遠い祖先の持っていた原始信仰が回帰してその特徴をより強く示すようになっていたため、中部東部ジャワに栄えたヒンドゥもしくはヒンドゥ=仏陀文化とは趣きが異なっている。イスラム化前のスンダ社会には宗教分野でいくつかの専門職があり、その職は世襲されていた。

チワリランの山頂に戻ろう。
[ 続く ]

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この作品は西さんの提供です


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