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「クラカタウ」
西 祥郎

「クラカタウ第3回」

スンダ海峡をはさんでランプンの対岸にあるバンテン地方の西海岸部一帯も、クラカタウの猛威を免れることはできなかった。1883年8月26日日曜日夜から27日月曜日の朝にかけて、ジャワ島西端部の海岸に住んでいるひとびとは夜を徹して地の底を揺るがしながら轟き続ける爆発音にまんじりともできなかったにちがいない。火山が吐き出した黒煙と大量の塵灰は上空を厚く覆い、細かい粒子が地上のすべてを包んだ。屋外にいるひとびとは例外なく手巾で顔を覆って細かい灰を吸い込まないようにした。屋内にいるひとびとも扉や窓を閉め切っていたが、微粒子の侵入を防ぐ術はなかった。大音響が轟くたびに地面が揺れ、扉や窓が振動し、屋内に置かれたあらゆる物が位置を変えた。海水は激しく波立ち、漁に出ようとする漁師はひとりもおらず、舟は波打ち際からできるだけ遠く離して内陸に引き上げられた。夜の闇が白み始める時間が来てスブの礼拝を告げる太鼓が鳴らされたが、この地域一帯は依然として深夜と変わらない闇の中にあった。そのとき地上を照らすものはクラカタウが噴出す火の明かりだけだった。鶏がときを告げ、羊や山羊がいつものように檻から出してもらおうと騒いだが、飼い主たちは寝付かれない夜の果てにまた朝が来たことを知って起き出したものの、再びランプを点けることを余儀なくされ、何をすればよいのか戸惑って普段の習慣を忘れてしまった。午前7時ごろ、東方の低い位置にある太陽がほのかな明かりを地上に投げ掛けたが、クラカタウの火口から立ち昇る黒煙がすぐにそれを遮り、ふたたび天空は闇に閉ざされた。
     
一層激しさを増すクラカタウの火山活動を観察していた村々の指導者は、もうすぐ大噴火が起こるだろうことを予測してそれぞれが住民に対して避難命令を下した。住民たちはすぐ東や南に向かって避難を開始したが、そのために海岸沿いの街道は避難民でごった返し、女子供老人の通行に困難をきたして逃れる足が緩慢になった。そんなとき、クラカタウの方角で耳をつんざく大音響が連続して轟いたために避難民はパニックに陥ってしまった。女や子供たちのすすり泣きが暗闇の底を埋めた。その混乱が鎮まる気配もなくおよそ半時間ほどが足早に過ぎ去っていき、そうして津波がやってきた。37メートルの高さにまで盛り上がった海水がクラカタウ島から50キロほど離れたアニエル、チャリタ、ラブハンの海岸に怒涛のように押し寄せて来たのだ。この津波は時速85キロという高速で四方に広がり、スンダ海峡両岸を薙ぎ倒してからセイロンを経てアラビア半島南端のアデンまで達し、東に向かっては太平洋を越えてハワイから中央アメリカ西岸にまで届いた。アデンまでは3千8百海里あって当時の優秀な船でも航海に12日を要したが、クラカタウの津波はわずか12時間でアデンに到達したという。
     
スンダ海峡の両岸は百ヵ村以上がその津波に滅ぼされた。海底にあった6百トンもの珊瑚や土石が陸上に運び上げられ、たまたまスンダ海峡を航行中だった艦船も波に運ばれて海岸から4キロ離れた内陸部に残骸をさらした。ウジュンクロンでは海岸から15キロの奥地にまで海水が到達した。このすさまじい勢いの波は地球を13周したと言われている。

ムラッ、アニエル、チャリタ、ラブハン、スムル、ウジュンクロンと連なるバンテン西海岸地区はすべての村が津波にさらわれ、家屋のひとつ、立ち木の一本も残さず姿を消した。その上に岩と泥と灰が数メートルの厚さで積もり、あらゆる生命が死に絶えていた。ひとびとは一週間ほどしてから滅びた海岸部を調べて回ったが、生きているものはなにひとつ見つけることができず、波が運び残した人間や家畜の屍骸が点々と散乱して至るところに腐敗臭を立ち昇らせているだけで、死者が誰であったのかを見分けることはもうできなくなっていた。クラカタウ火山の大爆発が奪った人命は36,417人と記録されている。1815年のバタビアとその周辺部における人口統計は47,217人という数字を示しており、喩えるならインドネシア随一の大都会の8割方が一日で死に絶えたほどの出来事だったと言うこともできそうだ。[ 続く ]

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この作品は西さんの提供です


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