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「クラカタウ」
西 祥郎

「クラカタウ(45)」

あれから45年を経過したチワリラン山頂で、ヌサ・ブラマの心は怒りの業火に焼かれていた。先祖代々維持してきた高貴な血統を打ち捨てて高価な財物に目をくらませた娘が下賎な出自の男と駆落ちをしたのだ。おまけに幼い頃は一緒に遊び、年頃になって父の言い付けによって夫婦となったヤティまでが娘と一緒に夫を捨てて逃げて行った。これまでは善良で夫の言い付けをよく聞く従順な妻だったのに、夫が警察に捕らえられて困っているときに夫に背を向けた。ヌサ・ブラマの誇りと希望と生きがいのすべてがずたずたにされた。もはやこの世に生きながらえる意味はない。
     
世が世であればクサトリア階級にあるヌサ・ブラマはパジャジャラン王家に近い親族であるため、いくさがあれば一軍を率いる将軍として出陣する人間なのだ。王家の血の濃いヌサ・ブラマの一族は宗教祭祀をも司っていたため、世俗の快楽や財産に関心を持っていなかった。質実剛健で威厳を重視するヌサ・ブラマの性格は先祖代々受け継がれてきた血筋によるものだったのだ。たとえ女であっても、身内であっても、裏切りと辱めを許しておくことはできない。
     
自分は何の報酬も求めずに、一心に与えられた務めを果たしてきた。スンダ海峡一帯に住むひとびとの安寧を維持するためにあちこちにある神像に祈願し、バンテンの各地を巡る。チワリラン山では病に罹った者たちに治療を施してやる。自分の栄達や名声を、またそれによって得られる快楽や財産を求めて行ってきたわけではない。その挙句に自分が受けたものがこれなのか?ヌサ・ブラマには人間が信じられなくなっていた。アブドゥル・シンティルは不治だと言われた視力を取り戻すことができた。ヌサ・ブラマのおかげだ。ところがその目に映った美しいものを、あの男はヌサ・ブラマから奪ってでも自分のものにしようとした。人間の罪業の深さは限りがない。そんな罪深い人間を自分は何のために守護してきたのだろうか。

洞窟の一番奥にあるウィスヌ神の神殿でヌサ・ブラマの思いは千路に乱れていた。先祖代々守り続けてきたこの神像を自分が破壊して良いものなのか。だが自分の後を継ぐ人間はもういない。そうするとこの神像が手入れされないで朽ち果て、壊れるのは間違いない。であるならそれは時間の問題であり、裏切り者を懲らしめ世の人間に罪業の深さを悟らせることをいま行って何がちがうと言うのか?ヌサ・ブラマは心を決めて立ち上がり、神像の玉座に迫った。45年前に自分が父とふたりで修復したウィスヌ像を慎重に抱えあげたヌサ・ブラマはそれを持って神殿の脇にある大きな穴の近くに運んだ。
     
穴の中は真っ暗で何も見えないが、ドロドロと何かの沸騰する音が聞こえ、硫黄臭い煙が立ち昇ってくる。「バタラウィスヌよ、お赦しあれ。」ヌサ・ブラマはそう念じて神像を穴の中に投げ込んだ。5秒ほどしてから岩に何かがぶつかって転がる音がし、最期に硬いものが激突する音が聞こえた。ほどなくはるか遠くのどこかで雷鳴のような轟音が鳴ったように思えた。そして穴の底からは黄色い煙が吹き上げてきた。硫黄臭が神殿に満ちた。ちょうどそのとき、アブドゥル・シンティルの乗った帆船はクラカタウのカルデラを横切っていたのだ。そして警察蒸気船がその内海へ進入しようとする直前だった。

[ 続く ]


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この作品は西さんの提供です


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