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「クラカタウ」
西 祥郎

「クラカタウ第6回」

スンダ海峡に面したワリギン郡でラデン・チャクラ・アミジャヤ郡長は役所にいた。その日は日曜日だったから役所にいるのは郡長の家族と使用人だけだった。地方行政首長は役所を自分の住居にしていたために、妻子もそこに一緒に住むのが普通なのだ。クラカタウの噴火が日を追って激しさを増しており、鎮まる気配はない。住民の不安は日増しに高まっていた。郡長の妻、ラデン・アユ・サディジャも心の奥底で不安と闘いながらも周囲のひとびとには威厳ある姿を見せていたが、隣に座った妻の赤い目を見た郡長には妻の心の葛藤が手に取るようにわかった。

「はっきりしないことに心を患わせても、なにも好転しない。あそこに大きな危険があるのも確かだが、それがわれらの身になにをもたらすのかはまだはっきりしない。それを泣いても怒っても、詮のないことだ。われらの運命は寛大で慈愛あふれるアラーの御手に委ね、われらはわれらにできる日々の勤めを果たすことだ。さあ、ラデン、悲しみを続けていても仕方がない。」郡長はクラカタウを指差しながら妻に語った。

「それは本当にその通りですわ、旦那様。もうこの数週間、何度も繰り返して夢に現われているおそろしいできごとをわたしが怖れているわけではないのです。もしわたしとあなただけでしたら、わたしは運命をアラーに委ねて平常心でその危険に対面するでしょう。でももし、椰子の木より高い大波にこの海岸一帯が洗い流され、天から降ってくる火と煮えたぎる泥があらゆる生命を滅ぼすなら、わたしたちの子供ハサンとスリヤティの運命はいったいどうなるのでしょう。それを思うとわたしは悲しみを払うことができません。」
「おまえは毎夜、そのような夢に悩まされているのかね。」
「ええ、そうです。でももうそれは夢でなく、床に就いて目を閉じるとまるで昔体験した思い出のようにわたしの脳裏に浮かんでくるのです。そしてわたしの耳には、そんな危険に襲われた住民たちの泣き声まで聞こえてくるのです。」
「そんな状態を放っておいてはいけない。来月になったらわたしと一緒にセランに行って、オランダ医師に薬を処方してもらおう。きっとおまえは神経の病に冒されているにちがいない。」
「あなたがこれを病だと思うのなら、オランダ医師にでもドゥクンにでも診てもらいましょう。でもわたし自身はこれが病の結果の幻とは少しも思えないのです。これは将来起こることの予見にちがいありません。海中のクラカタウ島が黒煙を吐き、まるで雷か大砲のような轟音をたてるたびにこの地面が揺れ、そのたびにわたしはあのクラカタウがこっちにいるわたしたちみんなに大きな災厄をもたらす予兆を感じるのです。」
     
郡長は立ち上がると考え込んだまま室内をゆっくり歩いた。そして妻に向き直ってから言った。
「この5月ごろから漁師たちは、あのクラカタウ島の火山がときに激しく動き、また暫くは鎮静するということを報告している。これまでのところは、あの山が人間に災厄をもたらしたことはない。よしんばあの山が大噴火を起こしたところで、こんな遠い場所にまで危険を及ぼすことはないだろう。カラン山やチワリラン山が噴火するのとは影響が異なる。こちらの山が噴火すればたくさんの町や村が破壊されるにちがいない。しかし海中にあるあの小島で噴火が起こったとしても、ここにまで危害をもたらすとは思えない。断言してもよい。だから理由のはっきりしない不安に涙を流したりしないで、おまえは貴族の娘としての矜持を保ち、住民たちには威厳を示してもらいたい。おまえの夢の話は決してわたし以外のだれにもしないように。そうだ、おまえの気分転換を兼ねて、子供たちを明朝ランカスビトゥンへ送って行ってはどうだろうか。県令であるわたしの父のもとで暫く静養するのがよい。月が替わったら、三四日してからわたしもランカスビトゥンに行き、おまえをセランに伴って医者を訪問することにしよう。もし必要ならバタビアで治療を受ければよい。」
「旦那様、あなたを危険の中にひとり残して去ることはわたしにはとても・・」
「その危険はおまえの頭の中にあるだけだ。」
「わたしもそれがただの幻であることを望んでいるのです。ですから、どうか明日一日待ってください。その日に大きな災厄がこの地を襲わなければ、あなたが奨めるようにランカスビトゥンへ出発することにいたしましょう。」

郡長は妻との会話を切り上げて、外の様子を見るために役所を出た。[ 続く ]

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この作品は西さんの提供です


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